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    <published>2013-01-15T22:59:53+09:00</published> 
    <updated>2013-01-15T22:59:53+09:00</updated> 
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    <title>無題</title>
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      <![CDATA[<a href="//headlessness.7narabe.net/File/582871678333.jpg" target="_blank"><img src="//headlessness.7narabe.net/File/582871678333.jpg" style="width:320px;height:auto;" /></a>]]> 
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    <published>2012-10-04T22:14:09+09:00</published> 
    <updated>2012-10-04T22:14:09+09:00</updated> 
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    <title>a</title>
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      <![CDATA[<br id="NINJASELECTIONID" style="clear: both" />
aa]]> 
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            <name>No Name Ninja</name>
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    <published>2012-01-10T21:58:38+09:00</published> 
    <updated>2012-01-10T21:58:38+09:00</updated> 
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    <title>無題</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[重心回しは12（マグネシウム）まで。<br />
モノは12で閉じる。<br />
12が反転した13（アルミニウム）はモノを見ている観察者または空間！]]> 
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            <name>No Name Ninja</name>
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    <published>2011-09-11T15:24:22+09:00</published> 
    <updated>2011-09-11T15:24:22+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>無題</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[選ばれし民ゆえに迫害に遭う、っていうのはトチ狂った発想だわな。自滅は自我の倒錯した発展形態で、自己アピールの一種にすぎない。周りを巻き込んで地に堕ちようとする悪行だ。が、そうさせようとする力が存在しているのも事実。自我は正しく発展させる必要がある。夢想する自我は消滅させて、機能する自我を発展させる。自滅と消滅は違う。<br />
]]> 
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            <name>No Name Ninja</name>
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    <published>2011-09-01T23:10:32+09:00</published> 
    <updated>2011-09-01T23:10:32+09:00</updated> 
    <category term="惑星アドヴァイタ" label="惑星アドヴァイタ" />
    <title>アドヴァイタの本質に迫る</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[想像してみてください。ある朝目を覚ましたらあなたは別の世界にいます。明るい日の光に慣れようとして目をこすると、この世界そっくりな世界を目にします。あなたの周りには、あなたの目には、かつての世界をともに生きていた人間のように見える生き物がいます。あなたは彼らの日々の営みを、行動、会話、取捨選択を観察します。それは馴染みのある、平凡な光景です。 　<br />
<br />
しかし、あなたはすぐにこの世界が見た目どおりでないことを知ります。というのも、彼らは人間ではないのです。違います。彼らは「身体／マインド機構」であり、人間と違って、数ある選択肢のなかからひとつを選びだすことができません。実際、これらの機構には私たちが自由意志と呼んでいるものも、それに類するものありません。彼らの全人生の脚本は彼らが生まれる遙か昔に石に刻まれていて、プログラムどおりの振る舞いを機械的に進めているだけなのです。この一見人間のように見える生き物は機械とたいして違わないように思えます。彼らはどう見ても、普通の、自由に考える、日常に追われた個人のように振る舞っているのですが、奇妙なことに、彼らはまったく何もしていないと主張します。それどころか、この一風変わった世界には「行為者」はいないと言うのです。さらに、この世界の誰も、何に対しても、責任がないと言います。彼らのうちの誰かがほかの誰かを攻撃したように見えるときでさえ、自責の念が感じられることも、非難を浴びせられることもありません。もしそのことについて尋ねたら、「誰も何もしなかったから」という答えが返ってくることでしょう。ここでは倫理は未知の概念です。この新世界には自然法則を適用できそうにありません。いや、もしかしたら、すでに書き換えられていたのかもしれません。というのも、この存在たちはなんらかの法則に従っているように見えるからです。あなたは不思議に思うでしょう、いったい地球のどこにこんな所があるのかと。ですが、そこは地球ではありません――あなたは惑星アドヴァイタに着いたのです。]]> 
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            <name>No Name Ninja</name>
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    <published>2011-09-01T23:09:02+09:00</published> 
    <updated>2011-09-01T23:09:02+09:00</updated> 
    <category term="惑星アドヴァイタ" label="惑星アドヴァイタ" />
    <title>導入</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[私はラメッシ・バルセカールにインタビューするためにボンベイに来ていた。こんにち生きているアドヴァイタ・ヴェーダンタの教師のなかでもっとも有名な人物のひとりである。彼は混沌とした大都市の中心部、ビーチに面した高級住宅地に住んでいる。タクシーの運転手の話では、辺りにはVIPの家が多いらしい。彼のマンションのドアマンは、西洋人の私を見ると、ラメッシ・バルセカールに会いに来たに違いないと察し、上の階に案内してくれた。彼の住居は広々としていて、設備が整っている。バルセカールは慇懃なホストだった。彼は真っ白なインドの伝統衣装に身を包んで現れ、私を暖かく出迎えてくれた。朗らかで快活な彼が80歳だというのは、にわかには信じられない。<br />
<br />
ラメッシ・バルセカールの経歴はインドのグルにしては特異なものだ。彼は西洋で教育を受けると、非常に成功したキャリアを完成させ、60歳のときにインド銀行総裁のポストから身を引いた。彼はいつも運命を信じていたと話すが、霊的な探求を始めるのは仕事を辞めてからだった。探求を始めるとすぐにグルのもとへ、アドヴァイタの高名なマスター、シュリ・ニサルガダッタ・マハラジのもとへ導かれる。ニサルガダッタは炎のような教師で、1970年代に西洋で有名になった人物だ。当時、『アイ・アム・ザット』というタイトルが付された彼との対話集が英訳されたためだ。同書は霊性の分野における新しい古典になっている。バルセカールはニサルガダッタのために通訳をしていたが、グルと出会って１年もしないうちに、突如、彼が言うところの「最終理解」――悟り――に達する。バルセカールの話によれば、ニサルガダッタは死ぬ直前に彼に教えてよいと許可したらしい。以来、この誉れ高い教師の後継者として、師のメッセージを分かち合ってきた。バルセカールは教えに関する本を何冊も書き、ヨーロッパと米国、インド各地で教えてきた。マンションの自室では毎朝サットサン［霊的な師を囲む集い］を開いている。参加者は彼に会うためにボンベイまで旅してきた西洋人の探求者が主だ。 　<br />
<br />
今号のWIE（※）がアドヴァイタにフォーカスするにあたって、私たちはまずバルセカールにインタビューしようと考えた。ひとつには、彼の評判と影響力――彼は生徒たちに自らの裁量で教えてよいと許可していている――がある。もうひとつは、多くの人が彼をアドヴァイタの高名なグルの後継者と見なしているためだ。しかしながら、バルセカールの著作を研究してみると、私たちはすぐに、彼が一風変わったアドヴァイタを教えていることに気づいた。正直に言えば、疑問が残る、憂慮すべき結論を引き出す教えなのだ。インド思想は決定論的だという批判があるが、バルセカールはこの決定論をかつてない程までに押し進めたように思える。私たちにボンベイでの対談を準備させたのは、結局のところ、アドヴァイタの教え全般に対する関心であり、この一筋縄ではいかない議題を究明したいという願望であった。私は挑戦しがいのある対談に心を躍らせて旅立っていた。だが、今にしてみれば、彼のリビングでくつろいでコーヒーがつがれる様を眺めている私には、これからなされる対話がどのようなものになるか、知るよしもなかったのだ。<br />
<br />
（※）この記事を発行している媒体 &quot;What Is Enlightenment?&quot; の略称。]]> 
    </content>
    <author>
            <name>No Name Ninja</name>
        </author>
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    <published>2011-09-01T23:01:40+09:00</published> 
    <updated>2011-09-01T23:01:40+09:00</updated> 
    <category term="惑星アドヴァイタ" label="惑星アドヴァイタ" />
    <title>インタビュー</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　インドと西洋では、あなたはアドヴァイタ・ヴェーダンタの教師として、日を追って有名になっています。あなたの教えがどのようなものなのか教えていただけないでしょうか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">ラメッシ・バルセカール：</font><font class="font6">　ひとことで言うことができます。私が教えていることは「神の御心のままに」という言葉を礎にしています。あるいは、イスラム教徒がインシャラーと言うように、「神の意志」です。もしくは、ブッダの言葉を借りて言えば、「出来事が起き、行為が為される。そこに個別の行為者はいない」。人生における葛藤は、根本的に、「私はいつも正しいことをしているのだから報われたい。あの人はいつも間違ったことをしているのだから罰せられるべきだ」というものです。これが人生のすべてではないでしょうか？</font>&nbsp;<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　そうですね、たしかによくあることです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　これが、私の見たところ、根底にあります。問題は、「</font><font class="font7">私は</font><font class="font6">何々をしたのだから報われるべきだ。</font><font class="font7">彼は</font><font class="font6">何々をしたので罰せられるべきだ」と言うときに現れます。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　人々にそのことを悟らせるには、どのようにされていらっしゃいますか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　とても簡単です。あなたが</font><font class="font7">自分の</font><font class="font6">行為だと思う行為を分析すれば、それは脳が外界の出来事に反応したことで、あなたにはコントロールできないということに気づくでしょう。なんらかの想いがやって来ます――あなたにはどのような想いが来るのか予測できません。何かを見るか聞くかします――あなたには次にどのようなことを見聞きするか、予測することができません。そういったことは、あなたには予測できないのです。では次に何が起こるでしょう？脳が思考に、あるいはあなたが見たもの、聞いたもの、味わったもの、におったもの、触れたものに反応します。脳のその反応が、あなたが「自分の行為」と呼ぶものです。しかし、実際には、これも概念にすぎません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　悟った人の思考、感情、行為は、悟ってない人のそれと違っているんですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　同じことが起きています。唯一の違いは、知者の場合、それが今起きていることだと理解している点です。彼は</font><font class="font7">自分</font><font class="font6">が何もしていなことを知っています――</font><font class="font7">すべてはただ起こります</font><font class="font6">。知者は「私は何もしていない」ということがわかっています。しかし、普通の人は、「私はこれをして、あの人はあれをしている。だから、私には褒賞が、あの人には懲罰が与えられるべきだ」と言います。褒賞も懲罰も、彼か彼女が何かを</font><font class="font7">している</font><font class="font6">という観念に基づいています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　私も、自分の経験則から、湧き上がってくる思考や感情は制御できないことは理解できます。ですが、行為は起きたり起きなかったりです。ただ思考が起こるだけの場合と、ほかの人に影響する行為が起こる場合とでは、ぜんぜん違うように思えるのですが。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　行為は脳が思考に反応した結果起こるものです。もし思考が目撃されるだけで、脳がその思考に反応しなければ、行為は起こらないでしょう。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　ですが、おっしゃているように、どのように反応するかを決める個人がいるのなら、では、行為を起こす原因はなんなのでしょう？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　神が起こそうと思った行為であればその行為は起こります。神の意志でない行為は起こりません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　起こることすべては神が意志したということですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　そうです。神の意志です。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　個人を通した行為がですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　個人を通してです。はい。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　その人が悟っていようがいまいがですか？</font><font class="font7">誰もが</font><font class="font6">ですか、言い換えるなら？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">そのとおりです。唯一の違いは、さっきもお話ししたように、普通の人は「それは</font><font class="font7">私の</font><font class="font6">行為だ」と考え、知者は誰の行為でもないと知っている点です。知者は知っています、「行為が為され、出来事が起きるが、行為者はいない」と。私が考えるかぎり、そして私の概念が保証するかぎりでは、それが</font><font class="font7">唯一の</font><font class="font6">違いです。普通の人と知者を隔てる唯一の違いは、普通の人は身体／マインド機構を通して起きることを、個々人が</font><font class="font7">している</font><font class="font6">と考える点にあります。知者は</font><font class="font7">自分の</font><font class="font6">行為はないと知っているので、もし誰かを傷つけることになる行為が起き、その人を助けるために最善を尽くしていたとしても、そこに罪悪感はありません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　つまり、個人が他者を傷つけるようなことをしても、その人には、あなたの言葉で言えば、その身体／マインド機構には、責任がないのですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　ここで言っているのは、あなたは「私」がしたのではないということを知っているということです。誰かを傷つけて悪く思わないということではありません。誰かが傷つけられたという事実は同情心を喚起し、同情心はその傷を癒そうとする行為に収束するでしょう。しかし、罪悪感はありません――</font><font class="font7">私がしたのではないのですから！</font><font class="font6">これは、一面では、社会が称賛する行為が起こるということでもあります。その称賛のために幸せな気持ちになることもあるでしょう。傷心が原因で同情心が湧くように、称賛のために多幸感が湧き上がるかもしれません。しかし、そこに矜恃心はありません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">あなたは文字どおりの意味で、私が誰かを殴っても、それをしたのは私では</font><font class="font7">ない</font><font class="font6">とおっしゃているのですか？ここははっきりと理解しておきたいものでして。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　原因となった事実は、その概念は、依然として同じままです――あなたは誰かを殴りました。その後に、なんであれ起こることは神の意志だという概念が湧き上がります。それぞれの身体／マインド機構に関する神の意志は、その身体／マインド機構の運命です。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　ではこう言ってもいいのですね。「それは神が望んだからしたことで、私が悪いんじゃない」</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　もちろん。行為は起こります。それがその身体／マインド機構の運命で、神の意志だからです。その行為の</font><font class="font7">結果もまた</font><font class="font6">、その身体／マインド機構の運命です。たとえば、マザーテレサがいました。「マザーテレサ」として知られている身体／マインド機構はそのようにプログラムされていたため、よい行いばかり起こりました。ですから、その業績はマザーテレサという身体／マインド機構の運命です。その原因に対する結果は、ノーベル賞、褒賞、寄付などです。そのすべてはマザーテレサと呼ばれた身体／マインド機構の運命でした。一方で、精神異常機構もあって、同じ源泉がそのようにプログラムしました。そのため、悪行や倒錯した行為が起こります。そういった悪行や倒錯行為は社会がサイコパスと呼ぶ身体／マインド機構の運命です。しかし、サイコパスはサイコパスに</font><font class="font7">なろうとして</font><font class="font6">なったわけではありません。実際、</font><font class="font7">サイコパスは存在しません</font><font class="font6">。ただサイコパス的な身体／マインド機構があるだけで、その運命は、悪を、倒錯した行為を為すことです。こういった行為の結果も</font><font class="font7">また</font><font class="font6">、その身体／マインド機構の運命なのです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　すべてはあらかじめ決められていたということですか？生まれたときからプログラムされていたと？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">そうです。私は身体／マインド機構の生来の性格を「プログラム」という言葉で説明しています。「プログラム」とは、私の定義では、遺伝と環境のことです。人は両親を選べませんし、自分の遺伝子も選べません。同様に、特定の環境を選んで生まれてくることができません。したがって、その環境から受ける子供時代の諸条件も選択することができません。家庭環境、社会、学校、教会などです。心理学者は３歳か４歳になるまでの全条件がその人の基本的な条件だと言っています。その後も条件付けは続きますが、その人の人格をつくった基本的な条件は、遺伝と環境的因子です。私はそれをプログラムと呼んでいます。それぞれの身体／マインド機構は独自のプログラムを持っています。同じ身体／マインド機構は２つとしてありません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　ええ、ですが、２人の人が非常に似通った条件を持ち、片方がもう片方とまったく違う成長を遂げる場合もありませんか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">はい。そのため、私は２つの言葉を使っています。ひとつは</font><font class="font7">プログラム</font><font class="font6">で身体／マインド機構が有するものです。もうひとつは</font><font class="font7">運命</font><font class="font6">です。運命はそれぞれの身体／マインド機構に関する神の意志で、受胎の瞬間に烙印されます。その運命は生まれてこないかもしれません――中絶された場合などです。こういったことはすべて概念で、間違うことがありません。これが私の概念です。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">あなたはこういったことが概念だとおっしゃいますが、もちろん、すべての言葉は概念です、しかしどうやってその概念が正しいと知ればよいのでしょう？私は、誰もが各々の責任を持つと考えてしまいます。一定量の条件付けを受け継いでいるにせよ、依然、私たちにはどう反応するか</font><font class="font7">選択できる</font><font class="font6">と思うのです。ある人はほかの人だったら一生抜け出せない条件を超えていくことができます。こういったことが起こるので、条件付けを超えられるかどうかは、個々人の</font><font class="font7">願望にかかっている</font><font class="font6">と言いたいのです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">しかし、それが起きたとしても、神の意志なしに起こりえるでしょうか？２人の人がいたとします。ひとりは障害を乗り越えようとして、成功します。もうひとりは失敗します。私がお話ししているのは、成功した人も失敗した人も、それがその身体／マインド機構の運命――神の意志――だからということです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　単純に、神が選択権を与えたという言い方はできませんか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　できません。こう考えてみてください。誰の意志が通底しているのでしょう？――個人のでしょうか、神のでしょうか？御自身の実感では、自由意志はどの程度まっとうされていますか？</font> 　 <font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　私は、個人の意志は時折まっとうできているように感じます。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">神の意志に勝ってでしょうか？あなたが何かを望んで、それに対して働きかけ、それが実際に起きたとき、それはあなたの意志と神の意志が</font><font class="font7">一致したから</font><font class="font6">起こりました。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　たとえば、薬物中毒になってそのまま人生を終える人がいますよね。彼らは神の意志に反して生きることを</font><font class="font7">選択して</font><font class="font6">、望みを叶えたのだと言えると思います――まさに自由意志が</font><font class="font7">ある</font><font class="font6">ためにです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">ですが、あなたがこのことを受け入れるか受け入れないか、</font><font class="font7">それ自身が</font><font class="font6">神の意志なのです。おわかりでしょうか？あなたが神の意志を受け入れる場合も、あなたが神の意志を受け入れない場合も、</font><font class="font7">それが</font><font class="font6">神の意志なのです！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　それは、必ずしもそうではないと思います。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　あなたは天の邪鬼になっているだけです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　いえ、その、私は真実を知りたいだけです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　ですが、何が真実でしょう？先ほどもお話ししたように、</font><font class="font7">なんであれ</font><font class="font6">、私が言うことは概念です。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">はい、わかっています。しかしすべての概念が同じわけではありません。真実を指す概念もあれば、そうでないものもあります。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　あらゆる概念は何かを指そうとしますが、それらは、やはり、概念です。真に問われるべきことは、「概念でないものは何か？」ということです。</font><br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　私が言いたいのは、すべてがあらかじめプログラムされた運命で、選択の余地はないというお話が、極端な還元主義に思えるということです。この観点からすると、人間はコンピューターのようなもので、私たちが関係することは完全に決められていることになります。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　まったくそのとおりです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　しかし、こういった見方は人間性を欠いているように思います。その場合、私たちは機械のようなもので、すべてが私たちに</font><font class="font7">対して</font><font class="font6">起こります。私たちは何もできず、何も変えられません。</font><br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">はい、そのとおりです！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　ですが、だとすると、人生に対する関心を失いかねません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">ええ、もしそうなれば、それはすばらしいことです！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　本当に？そうなんですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">ここが肝心なところです！もちろん。あなたは起こることを</font><font class="font7">受け入れる</font><font class="font6">ことができます。そして、不幸も、惨めさも、罪悪感も、矜恃心も、憎悪も、嫉妬も消え去るでしょう。これのどこが悪いのでしょう？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　しかし、ハートは残るのでしょうか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　ハートというのは、惨めさや罪悪感のことですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　いえ、そういうことじゃないです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　どういう意味でしょう？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　私たちのなかにある、人生を気にかける何かです。大まかですが。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　先ほどもお話ししたように、この身体／マインド機構を通して行為が起こります。もしその行為が誰かを傷つけ、個人がそれに気づいたなら、同情心が湧き上がります。ハートがなければ同情心が湧くでしょうか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　しかし、まず誰かを傷つけてから、それからその人に同情心を抱くというのは、少し変じゃないですか？はじめから誰も傷つけないほうがいいと思うのですが。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">ですが、あなたにはコントロールできないのです！もしコントロールできたら、そもそもそういったことはしていなかったでしょう。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　あるいは、もしコントロール</font><font class="font7">できる</font><font class="font6">と信じていれば、そう信じていなかった場合とは逆に、はじめからそうして</font><font class="font7">いなかった</font><font class="font6">かもしれません！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　ではなぜ人類は行為をコントロールをしようと切磋琢磨しないのでしょう？質問させてください。人類は明らかに非常に高い知性を有しています。ちっぽけな人間を月に送ることができるほどです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　ええ、たしかに。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　人類にはどういうことをすれば恐ろしいことが起こるかわかる知性があります。核兵器や化学兵器をつくれば、いつか誰かがそれを使い、世界に恐ろしいことが起こるだろうとわかる知性があります。</font><font class="font7">人類には知性があります</font><font class="font6">――では、もし自由意志があるのなら、なぜそうしたのでしょう？なぜ人類は世界を現在のような状況に貶めたのでしょう、自由意志がありながら？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　たしかに、現在の世界は正気の沙汰とは思えません。それはそのとおりです。しかし、人々の意志が弱いという事実があります。私は、彼らが望みさえすれば、人は変わると信じています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　ではなぜ変わっていないのですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　一部の人は</font><font class="font7">実際に</font><font class="font6">変わりますが、先ほどもお話ししたように、不幸なことに、ほとんどの人は意志がとても弱いのです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">それが</font><font class="font7">自由意志がない</font><font class="font6">ということなのです！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　自由意志があるだけでは知的な振る舞いは保証されません。あなたがおっしゃったの例のように、極めて有害な行為を選択する場合があることは明らかです。</font><br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　つまり、私たちには世界を滅ぼそうとする自由意志があるということですか？もし世界を滅ぼすのも自由意志によるというのなら、私たちは世界が滅ぶことを</font><font class="font7">望んでいる</font><font class="font6">ということになります――滅ぼされるであろうことを十分に知りながら！自由意志は、当人がそれを</font><font class="font7">したがっている</font><font class="font6">ということを意味しています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">私は、問題はむしろ、人々が行為の結果を考慮に入れない場合が往々にしてあることだと思います。彼らは自分のことを考えるだけで、その行為がどういうことに繋がるかよく考えません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　しかし、人類にはとてつもない知性があります。なぜ彼らはそのことを考え</font><font class="font7">ない</font><font class="font6">のでしょう？私の答えは――そうすることになっていないから！です。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　そうすることになっていない、というのは、どういう意味ですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　人類がこういった言葉を用いて考えることは神の意志ではありません。神の意志は、人間は不完全だというのものです。知者と普通の人の違いは、知者は</font><font class="font7">目の前の現実</font><font class="font6">を神の意志として受け入れ、しかし――これが大事なのですが――だからといって、自分がすべきだと思ったことが</font><font class="font7">できなるなるわけではない</font><font class="font6">点です。そして、彼がすべきだと思ったことはプログラムに基づいています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">ですが、なぜ知者は「すべきだと</font><font class="font7">思った</font><font class="font6">ことをする」のですか、もしあなたが言われるように、</font><font class="font7">自分</font><font class="font6">が思いついたの</font><font class="font7">ではない</font><font class="font6">と知っているのなら？</font><br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">つまり、どのようにして行為は起こるかということですか？それは、身体／マインド機構のなかのエネルギーが、プログラムに沿って行為を生みだしています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　では、行為は、あなたが説明されたように、個人を</font><font class="font7">通して</font><font class="font6">来るのですね。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　個人を通して流れ出ます。はい。行為は起こります。それが私がお話ししているすべてです。ブッダの言葉に戻れば、「出来事が起き、行為が為される」。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　私が知っているブッダは、彼は、個人は自らの行為に責任を負うと強く感じていたはずです。ブッダの教えはカルマの法則に、原因と結果に基づいていると思うのですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">ブッダではありません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　私の印象では、ブッダは「正しい行為」についてかなり詳細に話しています。彼は人々の行為に深い関心を抱いて、自分を変えるために適切な努力をするようにと語っていたと思います。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　それはブッダの教えの二次解釈です。ブッダの言葉はとても明快です。誰が目の前で起きていることをコントロールしているか？――神が！これが</font><font class="font7">あらゆる</font><font class="font6">宗教の基礎になっていることはすでに見てきたとおりです。でも、これが基礎にありながら、なぜ宗教戦争が起こるのでしょう？解釈する人が起こしています！そしてそれすらも、神の意志でなければ起こり得るでしょうか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">私たちがすることはそれが神の意志だからだと信じていらっしゃるのは、よくわかりました。しかし、私には、それがあてはまるのは霊的な道を終わらせた個人――エゴを終わらせることができた人――だけのように思えます。なぜなら、そういう人の行為は利己的ではありませんし、またそのために、神の意志が</font><font class="font7">歪められる</font><font class="font6">ことがないからです。ですが、そうなるまでは、もし個人が他者に意地悪く振る舞っても、それは利己的であるがゆえのやむを得ない反応として理解できます。そういった場合、あなたがおっしゃっていることは、不快で攻撃的な行為の正当化になりかねません。「これが神の意志だったんだ。たいしたことじゃないさ！」と言ってもかまわないわけですから。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">わかっています。しかしそれが</font><font class="font7">真実</font><font class="font6">です。あなたの本当の質問は「なぜ神はこういう世界をつくったのか？」ということです。ですが、おわかりのように、人間は創造された客体で、源泉から現れた全体性の一部を構成するものです。ですから、私の答えは、創造された客体はその創造主を知り得ない、というものです。喩えを使ってみましょう。絵を描くところを想像してみてください。あなたは絵のなかに人物を描きます。その人物は、まず、なぜ絵描きがこういう絵を描いたのか知りたくなります。それから、なぜこうも醜い絵なのかと疑問に思います！創造された客体にどうして創造主の意志を知ることができるのでしょう？ポイントは、しかしだからといって、</font><font class="font7">あなたがしようと思うことができなくなるわけではない</font><font class="font6">点です！それが神の意志でなければ何事も起こらないと受け入れたからといって、個人がすべきだと思ったことができなくなるわけではないのです。ほかに何が</font><font class="font7">できる</font><font class="font6">のでしょう？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　しかし、その論法からいけば、さっきもお話したように、「すべてが神の意志なんだ。どうなっても問題ないさ」と結論して諦めてしまうことが容易に起こると思うのです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　つまり、「なぜ一日中ベッドにいてはいけないのか？」ということですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　そうです。なぜ努力する必要があるのでしょう？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">それは身体／マインド機構のなかにあるエネルギーが、しばらくの間、その身体マインド機構が怠惰であることを許さないからです。そのエネルギーは、物理的か精神的か、なんらかの行為を瞬間毎につくり続けるでしょう。それはその身体／マインド機構のプログラムに沿うもので、その身体／マインド機構の運命であり、神の意志です。しかし、依然として、自分を個人だと思っているあなたは、何をするのも自由です。私がお話ししていることは、つまり、どのような状況のどのような瞬間であれ、あなたがすべきだと思ったことは、それは寸分違わず神があなたにそう思ってもらいたかったことだということです！結局、神の意志を受け入れても、あなたがすべきだと思ったことは邪魔されません。おわかりでしょうか？実際、あなたはそうせざるを得ないのですから！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">あなたの世界観ではまるで私たちが選択や、意志、責任と見なしているものが、個人から移って、神や意識に委ねられているかのようです。そういうことなのですか？</font> <span>&nbsp;</span><br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　移行しています。自分が何かをしていると考えているとき、何があるでしょうか？罪悪感、矜恃心、憎しみ、嫉妬です。しかし、起こることは起こり続けます。ですが、自分は何もしていないと考えているとき、罪悪感も、矜恃心も、憎しみも、嫉妬もありません！人生はずっと平和になります。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">あなたの生徒が書いたパンフレットを読んだことがあります。そこには、『あなたが好きなことは神があなたに好くように望んだことです。彼の意志なしには何事も起こり得ません』とありました。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">はい、そのとおりです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　そのパンフレットには、ほかにも、『不貞を起こしても罪悪感を感じることはありません。あなたは、源泉は、常に清らかです』とありました。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">それはラマナ・マハリシの言葉です。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">源泉は常に清らかかもしれませんが、やはり、私には、良心のない行為を認めているようにとれます。あなたは「不貞を犯してもたいしたことじゃない。友人を傷つけてもかまわない。なぜならその行為は</font><font class="font7">ただ起きた</font><font class="font6">のだから」とおっしゃるかもしれません。それでは、欲望の赴くままに行為してよいと認めているように短絡できます。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">ですが、それが起きていることではありませんか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　たしかに、実際に起こります。しかし&hellip;</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　</font><font class="font7">より頻繁に</font><font class="font6">起こるだろうということですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">頻度は上がると思います。「何をしようと関係ないじゃないか。欲望を感じてもわざわざ抑えつけるべきでない」と言えてしまうわけですから。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　よく訊かれる質問はこういうものです。「もし本当に私が何もしていないのなら、マシンガンを手に外に出て、20人殺さないでいさせるものはなんですか？」あなたの訊かれていることはこういうことではありませんか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　それはちょっと極端ですが。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">ええ、極端な例を考えてみましょう！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　ですが、私は不貞の例のほうが興味があります。多くの人はマシンガンで人を殺すような極端なことはしないでしょうから。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">わかりました。不貞を犯した話も同じです。心理学者と生物学者は妻を裏切っても自分を責めるべきでないという結論に達したという記事がありました。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　それは、科学の合意ではないと思うのですが。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　私がお伝えしたいのは、科学者たちの結論が神秘主義者が言ってきたことにだんだん近づいてきているということです――どのような行為も、遡っていけば、プログラムどおりに起こっています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　場合によってはそうなのだろうと思うのですが、しかし、たとえば、こういう場合はどうでしょう。私が不貞を犯したい衝動に駆られるとします。そのとき、私は、「私がこうしたいというのは神の意志に違いない。ではやってしまおう」と言うことができます。</font><font class="font7">あるいは</font><font class="font6">、自制して、友人を苦しめないですみます。自制するほうがよくありませんか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">では自制することを妨げているのは誰でしょう？なんであれ好きなことをしていいのです！自制することを妨げているのはなんですか？自制していいのです！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　私が言いたいのは、自制したほうがよいということです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">私もそう思います。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　しかし、あなたの観点からすると、「私は欲望を感じているのだから、それは神の意志に違いない」と簡単に言うことができ、そして、自制</font><font class="font7">しない</font><font class="font6">でしょう。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　あなたは、自分は自制すべきだとわかってる、とおっしゃています――ではなぜ自制しないのですか？もし身体／マインド機構が妻を裏切らないようにプログラムされていたら、誰がなんと言っても、彼は裏切らないでしょう。もしあなたが他者に手を上げないようにプログラムされていたら、あなたは人を殺すでしょうか？さて、あなたが奥さんを殴ってもかまわないという法案が通り、どのような処罰も下されないとします。あなたは奥さんを殴るでしょうか？身体／マインド機構がそうするようにプログラムされていない限り、殴りません。そして、そのようにプログラムされていたら、殴るでしょう。ですから、神の意志を受け入れても、あなたがすべきだと思ったことはまっとうされます。すればいいのです。あなたには自分がすべきだと思ったとおりのことをするのです！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　結局のところ、それが運命や神の意志だと</font><font class="font7">わかっている</font><font class="font6">と言えるのは、どういうわけなんですか？私たちにわかることは、なんらかの出来事が起こるということだけです。自分がしたことをあとから振りかえって、「ただそうなった」と言い、もし運命という言葉を使いたかったら、そう言うことができます。しかし、それが運命かどうか本当は知らないと言うほうが、より正確なのではありませんか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">そこが肝心な点です。私たちにはわかりません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">ですが、わからないと言うことと、「神の意志だと知っている」と言うことは違っています。すべては確定しているのだと知っていると言うことは違います。あなたはすべてが神の意志だと</font><font class="font7">知っている</font><font class="font6">とおっしゃているように聞こえます。私が言いたいのは、私たちには</font><font class="font7">わからない</font><font class="font6">ということです。私たちにはこういったことを決めているのが神かどうかわかりません。ですから、本当は、「こういう仕組みになっている」とか「すべては神が設計したとおりだ」と言うことができません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　私たちにはわかりません。それが答えです。ですから、運命という概念を落として、本当は誰も何も知り得ないと言うこともできます。すばらしい！これで運命という概念の必要がなくなりました。なんであれ起こることはあなたに制御できないと受け入れたなら、結局、誰が運命を気にするのでしょう？</font><br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　多くの探求者が霊的な道に関するアドバイスを求めてあなたの所を訪れています。悟るために有効な修練とは、もし何かあれば、それはどういうものでなのでしょうか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　もしサーダナ［霊的な修練］が必要なら、身体／マインド機構がサーダナをするようにプログラムされています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　つまり、起こることは起こる、ということですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　そうです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　推奨したり、有効性を認めているわけではないのですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　ときどき訊かれる質問は、「もし何も自分の手の内にないのなら、私は瞑想するべきですか、しないべきですか？」というものです。私の答えはとてもシンプルです。もし瞑想したければすればいいし、したくなければ無理にすることはありません。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">霊的な探求は、では、覚醒の障害ですか？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：　</font><font class="font6">はい。探求は最大の障害です。なぜなら探求者がいるからです。探求者が障害なのであって、探求ではありません。探求はひとりでに起こります。身体／マインド機構が探求するようにプログラムされているため、探求が起こります。ですから、もし覚醒を目指す探求が起これば、身体／マインド機構は探求するようにプログラムされていたということです。障害は「悟りたい」と言う探求者です。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">それでは、なぜ、大勢の賢者たちが探求の重要性を説いてきたのですか？ラマナ・マハリシは、溺れた者が空気を求めるようにして、探求者は悟りを求めなければならないと言いました――非常に集中して、誠実に。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　もちろんです。では、そういった集中がなければならないというのは、どういう意味だと思いますか？彼はこうも言っています。「もし努力したければ努力しなくてはなりません。しかし、努力が為されるよう運命づけられていなければ、努力は為されません」これはラマナ・マハリシが言ったことです。ですから、探求するもしないも自分で決められることではありません。神を探すのも富を追うのも、どちらであっても、あなたの功績でも過ちでもないのです。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　あなたは本のなかで、ある人が非常に深い理解に達し、「この身体／マインド機構に覚醒が起ころうと起こるまいと、私は気にかけない」と言ったと書かれています。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　ええ。彼がその段階に達したということは、もう探求者がいないということです。覚醒に極めて近い状態です。気にかける人が誰もいないのであれば、探求者がいないということですから。</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：</font><font class="font6">　しかし、その結果、深い無関心状態になるんじゃないですか――無関心は覚醒ではないと思うのですが？</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　その結果は覚醒です！</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">WIE：　</font><font class="font6">もうひとつ質問させてください。あなたはよく「目の前の現実を受け入れる」とおっしゃっています――</font> 　<br />
<br />
<font class="font7">RB：</font><font class="font6">　はい、もしそれが可能なら――それもあなたにはコントロールできません！</font>]]> 
    </content>
    <author>
            <name>No Name Ninja</name>
        </author>
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    <published>2011-09-01T22:46:47+09:00</published> 
    <updated>2011-09-01T22:46:47+09:00</updated> 
    <category term="惑星アドヴァイタ" label="惑星アドヴァイタ" />
    <title>あとがき</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[ドアマンを後ろに騒がしいボンベイの街へ歩き出したが、私の心は浮き足立っていた。どうしてラメッシ・バルセカールのように高度な知性を持つ、教育を受けた人間が、すべてはあらかじめ決められていて、私たちの運命は、私たちが生まれる前から、言うなればエーテルでできた強固な岩にくっきりと刻まれているようなものだと信じることができたのだろう？私は人混みを掻き分けながら自問していた。彼は本当に、私たちの全人生が、まるで終わらないかのような選択と決断の連続が、浮き沈みの予測できない不安定な機会が、実は、初めの一息を吸い込んだ瞬間から既成事実だったと主張していいのだろうか？私はこの混乱から一息つこうとして、カフェを探しながら通りの反対側に渡っていた。頭のなかでは私たち双方の信念を巡る困難な対話がリピートされていた。そう、「神の御心のままに」がほとんどの宗教のエッセンスなのは確かだ。私は自分に言っていた。しかし、そう言い放った神秘主義者や賢者たちにとって、神の意志に平伏することは、単純に自らが置かれた環境は変えることはできないと受け入れることではなかったのだ。伝統的に言われてきた「神の意志」は、完全にエゴを諦め、利己的な動機がすべて消滅した人だけが発見できた。彼だけが神の意志――それがなんであれ！――を遂行するのだ。キリストやラーマクリシュナ、ラマナ・マハリシが、自分は神の意志に平伏していると言うのは、それはそれだ。しかし、これが誰にでもあてはまると言うのなら、それは奇妙で危険な狂気の一形態であると言えよう。バルセカールの理論――「自分がすべきだと思ったことは、自分がすべきだと思うように神が望んだことだ」――からすると、目覚めたブッダは次の犠牲者を襲おうとしている連続殺人犯と同程度に神の意志を遂行していることになる。 　<br />
<br />
インタビューに入る前はいくらかの意見の相違はあるだろうと予想していたが、しかし、バルセカールの本を読んでいたにもかかわらず、実際の彼は予想だにしない人物だった。いったいどうやってあんな考えを思いついたのだろう？そしてなぜ？私は不思議に思った。疑問は頭のなかをぐるぐる回り、彼の冷ややかな主張にまつわる発言を呼び起こしていった。――「誰かを傷つけても罪悪感を感じる必要はない。私たちには自分の行為に対する責任がないのだから」「ヒトラーはただの媒体で、起こらなければならなかった恐ろしい事件が彼を通して起こったにすぎない」そして、彼は断言したが、常識的感覚とは相容れない「私たちには自分の振る舞いをコントロールできないし、他者の振る舞いに影響を及ぼすこともできない」私たちは、彼のSF調の描写によれば、「プログラム」どおりに動作する「身体／マインド機構」なのだ。 　<br />
<br />
突然、スモッグのなかから待望のカフェが現れた。なかに入ると期待どおりの静かなオアシスのような所だったので、ほっとすることができた。それはこの店でだった。たくさんあった空席のうちのひとつに座り、病的なまでに甘いミルクティーを一口すすったときだった。それはいきなりやってきた。私はチャイを飲んでいなかった！それどころか、私は喫茶店に入った人物でもなかったし、頭がおかしいのではと思いはじめていた男との議論に苦悩していた人物でもなかった。実際、私は決して何もしていなかったのだ。それはまるで、私がずっと背負ってきた重荷が突然熱気球に乗ってアッという間に飛んでいって、そのまま帰ってこないかのようだった。いい人間になろう、とか、正直で寛大な人間になろうとしてもがいてきたが、そういった優越感や利己主義、攻撃的な性向を否定しようとする努力は、まったく愚かでばかげたことに、不必要に、ある尊大な観念に基づいていた――自分は運命をコントロールできるし、「他者」に害を及ぼすことができるというでしゃばった思いに。どうしてこうも間違っていたのだろう。だが待て、間違った人物も私ではないのだ！雲が霧散していくかのように、私ははっきりと理解した。「自分の人生」だと思っていたものは、実際は、機械的な行程だったのだ。自分だと思っていた人物は、ただの機械だった。自分が生きていると考えてきた世界は、私の憶測に反して、多様な人々から成る世界ではなく、機械的なシンプルさを備えた、完璧な秩序を持つ、時間が始まったときからプログラムどおりに動作してきた、数学的遊戯だったのだ。 　<br />
<br />
神の冷徹なまでに完璧な計画が私の前に姿を見せた。そして、恐怖、心配、義務、罪悪感からの絶対的な自由という光悦的スリルが、堰を切った川の激流のように私の全身を駆け巡った。不安は完全に消え、包み込むような、はっきりとした平和があった。今後どれほど不確かで曖昧模糊とした事態に遭っても、どれほど困難な決断を突きつけられても、なんであれ私が決めることは、寸分違わず、神が私に決めさせたことだと安心していられるのだ。私を突き動かしてきた正体不明の感覚はなくなっていた。カフェにいたほかの客たちが私の方を向く。私が大声で笑いだしていたからだ。腹の底から笑って、しばらく止まることがなかった。もし人々が生の実相を理解できたら、どれほど自由なのかをほんの僅かでも知ることができたら、もし惑星アドヴァイタに住めたなら、人生はなんとすばらしいゲームになることだろう。私はそのことを考えて、密かに楽しんでいた。]]> 
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            <name>No Name Ninja</name>
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    <published>2011-08-19T17:36:04+09:00</published> 
    <updated>2011-08-19T17:36:04+09:00</updated> 
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    <title>How to disappear completely</title>
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      <![CDATA[洋楽のかなりの数の曲が消えたい願望を歌っていると某ツイッタらーが書いていた。<br />
<br />
完全な死。]]> 
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    <author>
            <name>No Name Ninja</name>
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    <published>2011-08-14T14:50:39+09:00</published> 
    <updated>2011-08-14T14:50:39+09:00</updated> 
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    <title>知らないでいる</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[実在を神や一者と呼ぶのは危険。人間は最後に言語化して人格化して物語に落として解釈しようとするけど、実在に関しては何も言うべきではない。言語を超えた、言語の元となった世界をその下の階層にあるツールで解釈するのは原理的に不可能なのだから。もちろん描写しようと思えば自由にできることなのだからなんとでも言えてしまうのだけど、「何々」と言った瞬間に何々以外が生まれて、その何々以外の部分は当てはまらないと言っているわけだ。だから、すべてを包括するものを言い表しているとは言えない。<br />
<br />
実在は理解することができない。理解は言語を必要とするが、言語の範疇にないものを言語化することはできない。言語を超す抽象度は直接体験するしかない。これは英語の精神性を日本語に翻訳できないことと似ている。翻訳は翻訳。オリジナルではない。というか、言語というのは精神性のことなのだ。それぞれの言語にはそれぞれの精神性があって、お互いがお互いを必要としている。<br />
<br />
たとえば「世界は神の表現で、神が自分を知るためにつくったものだ」と言うことができる。<br />
<br />
言葉の上では絶対は相対と相対関係にあるが、「絶対」と呼ばれる実在は「相対」と相対関係になっているわけじゃない。実在を「絶対」と呼んだのは相対性の世界を先に目にして、観念して、それからじゃあこれは言うなら絶対だというわけでそう呼ばれただけ。これは悪が悪としか呼べないために空性が善と呼ばれてしまうことと相似。<br />
<br />
本当は、知ることができない。だから実在は描写できないし、解釈もできない。 そうはいっても便宜上なんらかの呼び名が必要なことあるので、強いて言うなら「なんでもない何か」とかが適切だと思う。「一者」だと、まず１というのが間違っている。実在は２ではないというだけで１ではない。１だとその裏の２が自動発生して、それ以降の数も連鎖してしまう。要するに、世界が現れる。で、間違う。なので不二一元という表現も違ってますな。<br />
<br />
対を絶つ。]]> 
    </content>
    <author>
            <name>No Name Ninja</name>
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