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無題

重心回しは12(マグネシウム)まで。
モノは12で閉じる。
12が反転した13(アルミニウム)はモノを見ている観察者または空間!

無題

選ばれし民ゆえに迫害に遭う、っていうのはトチ狂った発想だわな。自滅は自我の倒錯した発展形態で、自己アピールの一種にすぎない。周りを巻き込んで地に堕ちようとする悪行だ。が、そうさせようとする力が存在しているのも事実。自我は正しく発展させる必要がある。夢想する自我は消滅させて、機能する自我を発展させる。自滅と消滅は違う。

アドヴァイタの本質に迫る

想像してみてください。ある朝目を覚ましたらあなたは別の世界にいます。明るい日の光に慣れようとして目をこすると、この世界そっくりな世界を目にします。あなたの周りには、あなたの目には、かつての世界をともに生きていた人間のように見える生き物がいます。あなたは彼らの日々の営みを、行動、会話、取捨選択を観察します。それは馴染みのある、平凡な光景です。  

しかし、あなたはすぐにこの世界が見た目どおりでないことを知ります。というのも、彼らは人間ではないのです。違います。彼らは「身体/マインド機構」であり、人間と違って、数ある選択肢のなかからひとつを選びだすことができません。実際、これらの機構には私たちが自由意志と呼んでいるものも、それに類するものありません。彼らの全人生の脚本は彼らが生まれる遙か昔に石に刻まれていて、プログラムどおりの振る舞いを機械的に進めているだけなのです。この一見人間のように見える生き物は機械とたいして違わないように思えます。彼らはどう見ても、普通の、自由に考える、日常に追われた個人のように振る舞っているのですが、奇妙なことに、彼らはまったく何もしていないと主張します。それどころか、この一風変わった世界には「行為者」はいないと言うのです。さらに、この世界の誰も、何に対しても、責任がないと言います。彼らのうちの誰かがほかの誰かを攻撃したように見えるときでさえ、自責の念が感じられることも、非難を浴びせられることもありません。もしそのことについて尋ねたら、「誰も何もしなかったから」という答えが返ってくることでしょう。ここでは倫理は未知の概念です。この新世界には自然法則を適用できそうにありません。いや、もしかしたら、すでに書き換えられていたのかもしれません。というのも、この存在たちはなんらかの法則に従っているように見えるからです。あなたは不思議に思うでしょう、いったい地球のどこにこんな所があるのかと。ですが、そこは地球ではありません――あなたは惑星アドヴァイタに着いたのです。

導入

私はラメッシ・バルセカールにインタビューするためにボンベイに来ていた。こんにち生きているアドヴァイタ・ヴェーダンタの教師のなかでもっとも有名な人物のひとりである。彼は混沌とした大都市の中心部、ビーチに面した高級住宅地に住んでいる。タクシーの運転手の話では、辺りにはVIPの家が多いらしい。彼のマンションのドアマンは、西洋人の私を見ると、ラメッシ・バルセカールに会いに来たに違いないと察し、上の階に案内してくれた。彼の住居は広々としていて、設備が整っている。バルセカールは慇懃なホストだった。彼は真っ白なインドの伝統衣装に身を包んで現れ、私を暖かく出迎えてくれた。朗らかで快活な彼が80歳だというのは、にわかには信じられない。

ラメッシ・バルセカールの経歴はインドのグルにしては特異なものだ。彼は西洋で教育を受けると、非常に成功したキャリアを完成させ、60歳のときにインド銀行総裁のポストから身を引いた。彼はいつも運命を信じていたと話すが、霊的な探求を始めるのは仕事を辞めてからだった。探求を始めるとすぐにグルのもとへ、アドヴァイタの高名なマスター、シュリ・ニサルガダッタ・マハラジのもとへ導かれる。ニサルガダッタは炎のような教師で、1970年代に西洋で有名になった人物だ。当時、『アイ・アム・ザット』というタイトルが付された彼との対話集が英訳されたためだ。同書は霊性の分野における新しい古典になっている。バルセカールはニサルガダッタのために通訳をしていたが、グルと出会って1年もしないうちに、突如、彼が言うところの「最終理解」――悟り――に達する。バルセカールの話によれば、ニサルガダッタは死ぬ直前に彼に教えてよいと許可したらしい。以来、この誉れ高い教師の後継者として、師のメッセージを分かち合ってきた。バルセカールは教えに関する本を何冊も書き、ヨーロッパと米国、インド各地で教えてきた。マンションの自室では毎朝サットサン[霊的な師を囲む集い]を開いている。参加者は彼に会うためにボンベイまで旅してきた西洋人の探求者が主だ。  

今号のWIE(※)がアドヴァイタにフォーカスするにあたって、私たちはまずバルセカールにインタビューしようと考えた。ひとつには、彼の評判と影響力――彼は生徒たちに自らの裁量で教えてよいと許可していている――がある。もうひとつは、多くの人が彼をアドヴァイタの高名なグルの後継者と見なしているためだ。しかしながら、バルセカールの著作を研究してみると、私たちはすぐに、彼が一風変わったアドヴァイタを教えていることに気づいた。正直に言えば、疑問が残る、憂慮すべき結論を引き出す教えなのだ。インド思想は決定論的だという批判があるが、バルセカールはこの決定論をかつてない程までに押し進めたように思える。私たちにボンベイでの対談を準備させたのは、結局のところ、アドヴァイタの教え全般に対する関心であり、この一筋縄ではいかない議題を究明したいという願望であった。私は挑戦しがいのある対談に心を躍らせて旅立っていた。だが、今にしてみれば、彼のリビングでくつろいでコーヒーがつがれる様を眺めている私には、これからなされる対話がどのようなものになるか、知るよしもなかったのだ。

(※)この記事を発行している媒体 "What Is Enlightenment?" の略称。

インタビュー

WIE: インドと西洋では、あなたはアドヴァイタ・ヴェーダンタの教師として、日を追って有名になっています。あなたの教えがどのようなものなのか教えていただけないでしょうか?  

ラメッシ・バルセカール: ひとことで言うことができます。私が教えていることは「神の御心のままに」という言葉を礎にしています。あるいは、イスラム教徒がインシャラーと言うように、「神の意志」です。もしくは、ブッダの言葉を借りて言えば、「出来事が起き、行為が為される。そこに個別の行為者はいない」。人生における葛藤は、根本的に、「私はいつも正しいことをしているのだから報われたい。あの人はいつも間違ったことをしているのだから罰せられるべきだ」というものです。これが人生のすべてではないでしょうか? 

WIE: そうですね、たしかによくあることです。  

RB: これが、私の見たところ、根底にあります。問題は、「私は何々をしたのだから報われるべきだ。彼は何々をしたので罰せられるべきだ」と言うときに現れます。  

WIE: 人々にそのことを悟らせるには、どのようにされていらっしゃいますか?  

RB: とても簡単です。あなたが自分の行為だと思う行為を分析すれば、それは脳が外界の出来事に反応したことで、あなたにはコントロールできないということに気づくでしょう。なんらかの想いがやって来ます――あなたにはどのような想いが来るのか予測できません。何かを見るか聞くかします――あなたには次にどのようなことを見聞きするか、予測することができません。そういったことは、あなたには予測できないのです。では次に何が起こるでしょう?脳が思考に、あるいはあなたが見たもの、聞いたもの、味わったもの、におったもの、触れたものに反応します。脳のその反応が、あなたが「自分の行為」と呼ぶものです。しかし、実際には、これも概念にすぎません。  

WIE: 悟った人の思考、感情、行為は、悟ってない人のそれと違っているんですか?  

RB: 同じことが起きています。唯一の違いは、知者の場合、それが今起きていることだと理解している点です。彼は自分が何もしていなことを知っています――すべてはただ起こります。知者は「私は何もしていない」ということがわかっています。しかし、普通の人は、「私はこれをして、あの人はあれをしている。だから、私には褒賞が、あの人には懲罰が与えられるべきだ」と言います。褒賞も懲罰も、彼か彼女が何かをしているという観念に基づいています。  

WIE: 私も、自分の経験則から、湧き上がってくる思考や感情は制御できないことは理解できます。ですが、行為は起きたり起きなかったりです。ただ思考が起こるだけの場合と、ほかの人に影響する行為が起こる場合とでは、ぜんぜん違うように思えるのですが。  

RB: 行為は脳が思考に反応した結果起こるものです。もし思考が目撃されるだけで、脳がその思考に反応しなければ、行為は起こらないでしょう。  

WIE: ですが、おっしゃているように、どのように反応するかを決める個人がいるのなら、では、行為を起こす原因はなんなのでしょう?  

RB: 神が起こそうと思った行為であればその行為は起こります。神の意志でない行為は起こりません。  

WIE: 起こることすべては神が意志したということですか?  

RB: そうです。神の意志です。  

WIE: 個人を通した行為がですか?  

RB: 個人を通してです。はい。  

WIE: その人が悟っていようがいまいがですか?誰もがですか、言い換えるなら?  

RB: そのとおりです。唯一の違いは、さっきもお話ししたように、普通の人は「それは私の行為だ」と考え、知者は誰の行為でもないと知っている点です。知者は知っています、「行為が為され、出来事が起きるが、行為者はいない」と。私が考えるかぎり、そして私の概念が保証するかぎりでは、それが唯一の違いです。普通の人と知者を隔てる唯一の違いは、普通の人は身体/マインド機構を通して起きることを、個々人がしていると考える点にあります。知者は自分の行為はないと知っているので、もし誰かを傷つけることになる行為が起き、その人を助けるために最善を尽くしていたとしても、そこに罪悪感はありません。  

WIE: つまり、個人が他者を傷つけるようなことをしても、その人には、あなたの言葉で言えば、その身体/マインド機構には、責任がないのですか?  

RB: ここで言っているのは、あなたは「私」がしたのではないということを知っているということです。誰かを傷つけて悪く思わないということではありません。誰かが傷つけられたという事実は同情心を喚起し、同情心はその傷を癒そうとする行為に収束するでしょう。しかし、罪悪感はありません――私がしたのではないのですから!これは、一面では、社会が称賛する行為が起こるということでもあります。その称賛のために幸せな気持ちになることもあるでしょう。傷心が原因で同情心が湧くように、称賛のために多幸感が湧き上がるかもしれません。しかし、そこに矜恃心はありません。  

WIE: あなたは文字どおりの意味で、私が誰かを殴っても、それをしたのは私ではないとおっしゃているのですか?ここははっきりと理解しておきたいものでして。  

RB: 原因となった事実は、その概念は、依然として同じままです――あなたは誰かを殴りました。その後に、なんであれ起こることは神の意志だという概念が湧き上がります。それぞれの身体/マインド機構に関する神の意志は、その身体/マインド機構の運命です。  

WIE: ではこう言ってもいいのですね。「それは神が望んだからしたことで、私が悪いんじゃない」  

RB: もちろん。行為は起こります。それがその身体/マインド機構の運命で、神の意志だからです。その行為の結果もまた、その身体/マインド機構の運命です。たとえば、マザーテレサがいました。「マザーテレサ」として知られている身体/マインド機構はそのようにプログラムされていたため、よい行いばかり起こりました。ですから、その業績はマザーテレサという身体/マインド機構の運命です。その原因に対する結果は、ノーベル賞、褒賞、寄付などです。そのすべてはマザーテレサと呼ばれた身体/マインド機構の運命でした。一方で、精神異常機構もあって、同じ源泉がそのようにプログラムしました。そのため、悪行や倒錯した行為が起こります。そういった悪行や倒錯行為は社会がサイコパスと呼ぶ身体/マインド機構の運命です。しかし、サイコパスはサイコパスになろうとしてなったわけではありません。実際、サイコパスは存在しません。ただサイコパス的な身体/マインド機構があるだけで、その運命は、悪を、倒錯した行為を為すことです。こういった行為の結果もまた、その身体/マインド機構の運命なのです。  

WIE: すべてはあらかじめ決められていたということですか?生まれたときからプログラムされていたと?  

RB: そうです。私は身体/マインド機構の生来の性格を「プログラム」という言葉で説明しています。「プログラム」とは、私の定義では、遺伝と環境のことです。人は両親を選べませんし、自分の遺伝子も選べません。同様に、特定の環境を選んで生まれてくることができません。したがって、その環境から受ける子供時代の諸条件も選択することができません。家庭環境、社会、学校、教会などです。心理学者は3歳か4歳になるまでの全条件がその人の基本的な条件だと言っています。その後も条件付けは続きますが、その人の人格をつくった基本的な条件は、遺伝と環境的因子です。私はそれをプログラムと呼んでいます。それぞれの身体/マインド機構は独自のプログラムを持っています。同じ身体/マインド機構は2つとしてありません。  

WIE: ええ、ですが、2人の人が非常に似通った条件を持ち、片方がもう片方とまったく違う成長を遂げる場合もありませんか?  

RB: はい。そのため、私は2つの言葉を使っています。ひとつはプログラムで身体/マインド機構が有するものです。もうひとつは運命です。運命はそれぞれの身体/マインド機構に関する神の意志で、受胎の瞬間に烙印されます。その運命は生まれてこないかもしれません――中絶された場合などです。こういったことはすべて概念で、間違うことがありません。これが私の概念です。  

WIE: あなたはこういったことが概念だとおっしゃいますが、もちろん、すべての言葉は概念です、しかしどうやってその概念が正しいと知ればよいのでしょう?私は、誰もが各々の責任を持つと考えてしまいます。一定量の条件付けを受け継いでいるにせよ、依然、私たちにはどう反応するか選択できると思うのです。ある人はほかの人だったら一生抜け出せない条件を超えていくことができます。こういったことが起こるので、条件付けを超えられるかどうかは、個々人の願望にかかっていると言いたいのです。  

RB: しかし、それが起きたとしても、神の意志なしに起こりえるでしょうか?2人の人がいたとします。ひとりは障害を乗り越えようとして、成功します。もうひとりは失敗します。私がお話ししているのは、成功した人も失敗した人も、それがその身体/マインド機構の運命――神の意志――だからということです。  

WIE: 単純に、神が選択権を与えたという言い方はできませんか?  

RB: できません。こう考えてみてください。誰の意志が通底しているのでしょう?――個人のでしょうか、神のでしょうか?御自身の実感では、自由意志はどの程度まっとうされていますか?   WIE: 私は、個人の意志は時折まっとうできているように感じます。  

RB: 神の意志に勝ってでしょうか?あなたが何かを望んで、それに対して働きかけ、それが実際に起きたとき、それはあなたの意志と神の意志が一致したから起こりました。  

WIE: たとえば、薬物中毒になってそのまま人生を終える人がいますよね。彼らは神の意志に反して生きることを選択して、望みを叶えたのだと言えると思います――まさに自由意志があるためにです。  

RB: ですが、あなたがこのことを受け入れるか受け入れないか、それ自身が神の意志なのです。おわかりでしょうか?あなたが神の意志を受け入れる場合も、あなたが神の意志を受け入れない場合も、それが神の意志なのです!  

WIE: それは、必ずしもそうではないと思います。  

RB: あなたは天の邪鬼になっているだけです。  

WIE: いえ、その、私は真実を知りたいだけです。  

RB: ですが、何が真実でしょう?先ほどもお話ししたように、なんであれ、私が言うことは概念です。  

WIE: はい、わかっています。しかしすべての概念が同じわけではありません。真実を指す概念もあれば、そうでないものもあります。  

RB: あらゆる概念は何かを指そうとしますが、それらは、やはり、概念です。真に問われるべきことは、「概念でないものは何か?」ということです。

WIE: 私が言いたいのは、すべてがあらかじめプログラムされた運命で、選択の余地はないというお話が、極端な還元主義に思えるということです。この観点からすると、人間はコンピューターのようなもので、私たちが関係することは完全に決められていることになります。  

RB: まったくそのとおりです。  

WIE: しかし、こういった見方は人間性を欠いているように思います。その場合、私たちは機械のようなもので、すべてが私たちに対して起こります。私たちは何もできず、何も変えられません。

RB: はい、そのとおりです!  

WIE: ですが、だとすると、人生に対する関心を失いかねません。  

RB: ええ、もしそうなれば、それはすばらしいことです!  

WIE: 本当に?そうなんですか?  

RB: ここが肝心なところです!もちろん。あなたは起こることを受け入れることができます。そして、不幸も、惨めさも、罪悪感も、矜恃心も、憎悪も、嫉妬も消え去るでしょう。これのどこが悪いのでしょう?  

WIE: しかし、ハートは残るのでしょうか?  

RB: ハートというのは、惨めさや罪悪感のことですか?  

WIE: いえ、そういうことじゃないです。  

RB: どういう意味でしょう?  

WIE: 私たちのなかにある、人生を気にかける何かです。大まかですが。  

RB: 先ほどもお話ししたように、この身体/マインド機構を通して行為が起こります。もしその行為が誰かを傷つけ、個人がそれに気づいたなら、同情心が湧き上がります。ハートがなければ同情心が湧くでしょうか?  

WIE: しかし、まず誰かを傷つけてから、それからその人に同情心を抱くというのは、少し変じゃないですか?はじめから誰も傷つけないほうがいいと思うのですが。  

RB: ですが、あなたにはコントロールできないのです!もしコントロールできたら、そもそもそういったことはしていなかったでしょう。  

WIE: あるいは、もしコントロールできると信じていれば、そう信じていなかった場合とは逆に、はじめからそうしていなかったかもしれません!  

RB: ではなぜ人類は行為をコントロールをしようと切磋琢磨しないのでしょう?質問させてください。人類は明らかに非常に高い知性を有しています。ちっぽけな人間を月に送ることができるほどです。  

WIE: ええ、たしかに。  

RB: 人類にはどういうことをすれば恐ろしいことが起こるかわかる知性があります。核兵器や化学兵器をつくれば、いつか誰かがそれを使い、世界に恐ろしいことが起こるだろうとわかる知性があります。人類には知性があります――では、もし自由意志があるのなら、なぜそうしたのでしょう?なぜ人類は世界を現在のような状況に貶めたのでしょう、自由意志がありながら?  

WIE: たしかに、現在の世界は正気の沙汰とは思えません。それはそのとおりです。しかし、人々の意志が弱いという事実があります。私は、彼らが望みさえすれば、人は変わると信じています。  

RB: ではなぜ変わっていないのですか?  

WIE: 一部の人は実際に変わりますが、先ほどもお話ししたように、不幸なことに、ほとんどの人は意志がとても弱いのです。  

RB: それが自由意志がないということなのです!  

WIE: 自由意志があるだけでは知的な振る舞いは保証されません。あなたがおっしゃったの例のように、極めて有害な行為を選択する場合があることは明らかです。

RB: つまり、私たちには世界を滅ぼそうとする自由意志があるということですか?もし世界を滅ぼすのも自由意志によるというのなら、私たちは世界が滅ぶことを望んでいるということになります――滅ぼされるであろうことを十分に知りながら!自由意志は、当人がそれをしたがっているということを意味しています。  

WIE: 私は、問題はむしろ、人々が行為の結果を考慮に入れない場合が往々にしてあることだと思います。彼らは自分のことを考えるだけで、その行為がどういうことに繋がるかよく考えません。  

RB: しかし、人類にはとてつもない知性があります。なぜ彼らはそのことを考えないのでしょう?私の答えは――そうすることになっていないから!です。  

WIE: そうすることになっていない、というのは、どういう意味ですか?  

RB: 人類がこういった言葉を用いて考えることは神の意志ではありません。神の意志は、人間は不完全だというのものです。知者と普通の人の違いは、知者は目の前の現実を神の意志として受け入れ、しかし――これが大事なのですが――だからといって、自分がすべきだと思ったことができなるなるわけではない点です。そして、彼がすべきだと思ったことはプログラムに基づいています。  

WIE: ですが、なぜ知者は「すべきだと思ったことをする」のですか、もしあなたが言われるように、自分が思いついたのではないと知っているのなら?

RB: つまり、どのようにして行為は起こるかということですか?それは、身体/マインド機構のなかのエネルギーが、プログラムに沿って行為を生みだしています。  

WIE: では、行為は、あなたが説明されたように、個人を通して来るのですね。  

RB: 個人を通して流れ出ます。はい。行為は起こります。それが私がお話ししているすべてです。ブッダの言葉に戻れば、「出来事が起き、行為が為される」。  

WIE: 私が知っているブッダは、彼は、個人は自らの行為に責任を負うと強く感じていたはずです。ブッダの教えはカルマの法則に、原因と結果に基づいていると思うのですか?  

RB: ブッダではありません。  

WIE: 私の印象では、ブッダは「正しい行為」についてかなり詳細に話しています。彼は人々の行為に深い関心を抱いて、自分を変えるために適切な努力をするようにと語っていたと思います。  

RB: それはブッダの教えの二次解釈です。ブッダの言葉はとても明快です。誰が目の前で起きていることをコントロールしているか?――神が!これがあらゆる宗教の基礎になっていることはすでに見てきたとおりです。でも、これが基礎にありながら、なぜ宗教戦争が起こるのでしょう?解釈する人が起こしています!そしてそれすらも、神の意志でなければ起こり得るでしょうか?  

WIE: 私たちがすることはそれが神の意志だからだと信じていらっしゃるのは、よくわかりました。しかし、私には、それがあてはまるのは霊的な道を終わらせた個人――エゴを終わらせることができた人――だけのように思えます。なぜなら、そういう人の行為は利己的ではありませんし、またそのために、神の意志が歪められることがないからです。ですが、そうなるまでは、もし個人が他者に意地悪く振る舞っても、それは利己的であるがゆえのやむを得ない反応として理解できます。そういった場合、あなたがおっしゃっていることは、不快で攻撃的な行為の正当化になりかねません。「これが神の意志だったんだ。たいしたことじゃないさ!」と言ってもかまわないわけですから。  

RB: わかっています。しかしそれが真実です。あなたの本当の質問は「なぜ神はこういう世界をつくったのか?」ということです。ですが、おわかりのように、人間は創造された客体で、源泉から現れた全体性の一部を構成するものです。ですから、私の答えは、創造された客体はその創造主を知り得ない、というものです。喩えを使ってみましょう。絵を描くところを想像してみてください。あなたは絵のなかに人物を描きます。その人物は、まず、なぜ絵描きがこういう絵を描いたのか知りたくなります。それから、なぜこうも醜い絵なのかと疑問に思います!創造された客体にどうして創造主の意志を知ることができるのでしょう?ポイントは、しかしだからといって、あなたがしようと思うことができなくなるわけではない点です!それが神の意志でなければ何事も起こらないと受け入れたからといって、個人がすべきだと思ったことができなくなるわけではないのです。ほかに何ができるのでしょう?  

WIE: しかし、その論法からいけば、さっきもお話したように、「すべてが神の意志なんだ。どうなっても問題ないさ」と結論して諦めてしまうことが容易に起こると思うのです。  

RB: つまり、「なぜ一日中ベッドにいてはいけないのか?」ということですか?  

WIE: そうです。なぜ努力する必要があるのでしょう?  

RB: それは身体/マインド機構のなかにあるエネルギーが、しばらくの間、その身体マインド機構が怠惰であることを許さないからです。そのエネルギーは、物理的か精神的か、なんらかの行為を瞬間毎につくり続けるでしょう。それはその身体/マインド機構のプログラムに沿うもので、その身体/マインド機構の運命であり、神の意志です。しかし、依然として、自分を個人だと思っているあなたは、何をするのも自由です。私がお話ししていることは、つまり、どのような状況のどのような瞬間であれ、あなたがすべきだと思ったことは、それは寸分違わず神があなたにそう思ってもらいたかったことだということです!結局、神の意志を受け入れても、あなたがすべきだと思ったことは邪魔されません。おわかりでしょうか?実際、あなたはそうせざるを得ないのですから!  

WIE: あなたの世界観ではまるで私たちが選択や、意志、責任と見なしているものが、個人から移って、神や意識に委ねられているかのようです。そういうことなのですか?  

RB: 移行しています。自分が何かをしていると考えているとき、何があるでしょうか?罪悪感、矜恃心、憎しみ、嫉妬です。しかし、起こることは起こり続けます。ですが、自分は何もしていないと考えているとき、罪悪感も、矜恃心も、憎しみも、嫉妬もありません!人生はずっと平和になります。  

WIE: あなたの生徒が書いたパンフレットを読んだことがあります。そこには、『あなたが好きなことは神があなたに好くように望んだことです。彼の意志なしには何事も起こり得ません』とありました。  

RB: はい、そのとおりです。  

WIE: そのパンフレットには、ほかにも、『不貞を起こしても罪悪感を感じることはありません。あなたは、源泉は、常に清らかです』とありました。  

RB: それはラマナ・マハリシの言葉です。  

WIE: 源泉は常に清らかかもしれませんが、やはり、私には、良心のない行為を認めているようにとれます。あなたは「不貞を犯してもたいしたことじゃない。友人を傷つけてもかまわない。なぜならその行為はただ起きたのだから」とおっしゃるかもしれません。それでは、欲望の赴くままに行為してよいと認めているように短絡できます。  

RB: ですが、それが起きていることではありませんか?  

WIE: たしかに、実際に起こります。しかし…  

RB: より頻繁に起こるだろうということですか?  

WIE: 頻度は上がると思います。「何をしようと関係ないじゃないか。欲望を感じてもわざわざ抑えつけるべきでない」と言えてしまうわけですから。  

RB: よく訊かれる質問はこういうものです。「もし本当に私が何もしていないのなら、マシンガンを手に外に出て、20人殺さないでいさせるものはなんですか?」あなたの訊かれていることはこういうことではありませんか?  

WIE: それはちょっと極端ですが。  

RB: ええ、極端な例を考えてみましょう!  

WIE: ですが、私は不貞の例のほうが興味があります。多くの人はマシンガンで人を殺すような極端なことはしないでしょうから。  

RB: わかりました。不貞を犯した話も同じです。心理学者と生物学者は妻を裏切っても自分を責めるべきでないという結論に達したという記事がありました。  

WIE: それは、科学の合意ではないと思うのですが。  

RB: 私がお伝えしたいのは、科学者たちの結論が神秘主義者が言ってきたことにだんだん近づいてきているということです――どのような行為も、遡っていけば、プログラムどおりに起こっています。  

WIE: 場合によってはそうなのだろうと思うのですが、しかし、たとえば、こういう場合はどうでしょう。私が不貞を犯したい衝動に駆られるとします。そのとき、私は、「私がこうしたいというのは神の意志に違いない。ではやってしまおう」と言うことができます。あるいは、自制して、友人を苦しめないですみます。自制するほうがよくありませんか?  

RB: では自制することを妨げているのは誰でしょう?なんであれ好きなことをしていいのです!自制することを妨げているのはなんですか?自制していいのです!  

WIE: 私が言いたいのは、自制したほうがよいということです。  

RB: 私もそう思います。  

WIE: しかし、あなたの観点からすると、「私は欲望を感じているのだから、それは神の意志に違いない」と簡単に言うことができ、そして、自制しないでしょう。  

RB: あなたは、自分は自制すべきだとわかってる、とおっしゃています――ではなぜ自制しないのですか?もし身体/マインド機構が妻を裏切らないようにプログラムされていたら、誰がなんと言っても、彼は裏切らないでしょう。もしあなたが他者に手を上げないようにプログラムされていたら、あなたは人を殺すでしょうか?さて、あなたが奥さんを殴ってもかまわないという法案が通り、どのような処罰も下されないとします。あなたは奥さんを殴るでしょうか?身体/マインド機構がそうするようにプログラムされていない限り、殴りません。そして、そのようにプログラムされていたら、殴るでしょう。ですから、神の意志を受け入れても、あなたがすべきだと思ったことはまっとうされます。すればいいのです。あなたには自分がすべきだと思ったとおりのことをするのです!  

WIE: 結局のところ、それが運命や神の意志だとわかっていると言えるのは、どういうわけなんですか?私たちにわかることは、なんらかの出来事が起こるということだけです。自分がしたことをあとから振りかえって、「ただそうなった」と言い、もし運命という言葉を使いたかったら、そう言うことができます。しかし、それが運命かどうか本当は知らないと言うほうが、より正確なのではありませんか?  

RB: そこが肝心な点です。私たちにはわかりません。  

WIE: ですが、わからないと言うことと、「神の意志だと知っている」と言うことは違っています。すべては確定しているのだと知っていると言うことは違います。あなたはすべてが神の意志だと知っているとおっしゃているように聞こえます。私が言いたいのは、私たちにはわからないということです。私たちにはこういったことを決めているのが神かどうかわかりません。ですから、本当は、「こういう仕組みになっている」とか「すべては神が設計したとおりだ」と言うことができません。  

RB: 私たちにはわかりません。それが答えです。ですから、運命という概念を落として、本当は誰も何も知り得ないと言うこともできます。すばらしい!これで運命という概念の必要がなくなりました。なんであれ起こることはあなたに制御できないと受け入れたなら、結局、誰が運命を気にするのでしょう?

WIE: 多くの探求者が霊的な道に関するアドバイスを求めてあなたの所を訪れています。悟るために有効な修練とは、もし何かあれば、それはどういうものでなのでしょうか?  

RB: もしサーダナ[霊的な修練]が必要なら、身体/マインド機構がサーダナをするようにプログラムされています。  

WIE: つまり、起こることは起こる、ということですか?  

RB: そうです。  

WIE: 推奨したり、有効性を認めているわけではないのですか?  

RB: ときどき訊かれる質問は、「もし何も自分の手の内にないのなら、私は瞑想するべきですか、しないべきですか?」というものです。私の答えはとてもシンプルです。もし瞑想したければすればいいし、したくなければ無理にすることはありません。  

WIE: 霊的な探求は、では、覚醒の障害ですか?  

RB: はい。探求は最大の障害です。なぜなら探求者がいるからです。探求者が障害なのであって、探求ではありません。探求はひとりでに起こります。身体/マインド機構が探求するようにプログラムされているため、探求が起こります。ですから、もし覚醒を目指す探求が起これば、身体/マインド機構は探求するようにプログラムされていたということです。障害は「悟りたい」と言う探求者です。  

WIE: それでは、なぜ、大勢の賢者たちが探求の重要性を説いてきたのですか?ラマナ・マハリシは、溺れた者が空気を求めるようにして、探求者は悟りを求めなければならないと言いました――非常に集中して、誠実に。  

RB: もちろんです。では、そういった集中がなければならないというのは、どういう意味だと思いますか?彼はこうも言っています。「もし努力したければ努力しなくてはなりません。しかし、努力が為されるよう運命づけられていなければ、努力は為されません」これはラマナ・マハリシが言ったことです。ですから、探求するもしないも自分で決められることではありません。神を探すのも富を追うのも、どちらであっても、あなたの功績でも過ちでもないのです。  

WIE: あなたは本のなかで、ある人が非常に深い理解に達し、「この身体/マインド機構に覚醒が起ころうと起こるまいと、私は気にかけない」と言ったと書かれています。  

RB: ええ。彼がその段階に達したということは、もう探求者がいないということです。覚醒に極めて近い状態です。気にかける人が誰もいないのであれば、探求者がいないということですから。  

WIE: しかし、その結果、深い無関心状態になるんじゃないですか――無関心は覚醒ではないと思うのですが?  

RB: その結果は覚醒です!  

WIE: もうひとつ質問させてください。あなたはよく「目の前の現実を受け入れる」とおっしゃっています――  

RB: はい、もしそれが可能なら――それもあなたにはコントロールできません!

  































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