忍者ブログ

メニュー

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

あとがき

ドアマンを後ろに騒がしいボンベイの街へ歩き出したが、私の心は浮き足立っていた。どうしてラメッシ・バルセカールのように高度な知性を持つ、教育を受けた人間が、すべてはあらかじめ決められていて、私たちの運命は、私たちが生まれる前から、言うなればエーテルでできた強固な岩にくっきりと刻まれているようなものだと信じることができたのだろう?私は人混みを掻き分けながら自問していた。彼は本当に、私たちの全人生が、まるで終わらないかのような選択と決断の連続が、浮き沈みの予測できない不安定な機会が、実は、初めの一息を吸い込んだ瞬間から既成事実だったと主張していいのだろうか?私はこの混乱から一息つこうとして、カフェを探しながら通りの反対側に渡っていた。頭のなかでは私たち双方の信念を巡る困難な対話がリピートされていた。そう、「神の御心のままに」がほとんどの宗教のエッセンスなのは確かだ。私は自分に言っていた。しかし、そう言い放った神秘主義者や賢者たちにとって、神の意志に平伏することは、単純に自らが置かれた環境は変えることはできないと受け入れることではなかったのだ。伝統的に言われてきた「神の意志」は、完全にエゴを諦め、利己的な動機がすべて消滅した人だけが発見できた。彼だけが神の意志――それがなんであれ!――を遂行するのだ。キリストやラーマクリシュナ、ラマナ・マハリシが、自分は神の意志に平伏していると言うのは、それはそれだ。しかし、これが誰にでもあてはまると言うのなら、それは奇妙で危険な狂気の一形態であると言えよう。バルセカールの理論――「自分がすべきだと思ったことは、自分がすべきだと思うように神が望んだことだ」――からすると、目覚めたブッダは次の犠牲者を襲おうとしている連続殺人犯と同程度に神の意志を遂行していることになる。  

インタビューに入る前はいくらかの意見の相違はあるだろうと予想していたが、しかし、バルセカールの本を読んでいたにもかかわらず、実際の彼は予想だにしない人物だった。いったいどうやってあんな考えを思いついたのだろう?そしてなぜ?私は不思議に思った。疑問は頭のなかをぐるぐる回り、彼の冷ややかな主張にまつわる発言を呼び起こしていった。――「誰かを傷つけても罪悪感を感じる必要はない。私たちには自分の行為に対する責任がないのだから」「ヒトラーはただの媒体で、起こらなければならなかった恐ろしい事件が彼を通して起こったにすぎない」そして、彼は断言したが、常識的感覚とは相容れない「私たちには自分の振る舞いをコントロールできないし、他者の振る舞いに影響を及ぼすこともできない」私たちは、彼のSF調の描写によれば、「プログラム」どおりに動作する「身体/マインド機構」なのだ。  

突然、スモッグのなかから待望のカフェが現れた。なかに入ると期待どおりの静かなオアシスのような所だったので、ほっとすることができた。それはこの店でだった。たくさんあった空席のうちのひとつに座り、病的なまでに甘いミルクティーを一口すすったときだった。それはいきなりやってきた。私はチャイを飲んでいなかった!それどころか、私は喫茶店に入った人物でもなかったし、頭がおかしいのではと思いはじめていた男との議論に苦悩していた人物でもなかった。実際、私は決して何もしていなかったのだ。それはまるで、私がずっと背負ってきた重荷が突然熱気球に乗ってアッという間に飛んでいって、そのまま帰ってこないかのようだった。いい人間になろう、とか、正直で寛大な人間になろうとしてもがいてきたが、そういった優越感や利己主義、攻撃的な性向を否定しようとする努力は、まったく愚かでばかげたことに、不必要に、ある尊大な観念に基づいていた――自分は運命をコントロールできるし、「他者」に害を及ぼすことができるというでしゃばった思いに。どうしてこうも間違っていたのだろう。だが待て、間違った人物も私ではないのだ!雲が霧散していくかのように、私ははっきりと理解した。「自分の人生」だと思っていたものは、実際は、機械的な行程だったのだ。自分だと思っていた人物は、ただの機械だった。自分が生きていると考えてきた世界は、私の憶測に反して、多様な人々から成る世界ではなく、機械的なシンプルさを備えた、完璧な秩序を持つ、時間が始まったときからプログラムどおりに動作してきた、数学的遊戯だったのだ。  

神の冷徹なまでに完璧な計画が私の前に姿を見せた。そして、恐怖、心配、義務、罪悪感からの絶対的な自由という光悦的スリルが、堰を切った川の激流のように私の全身を駆け巡った。不安は完全に消え、包み込むような、はっきりとした平和があった。今後どれほど不確かで曖昧模糊とした事態に遭っても、どれほど困難な決断を突きつけられても、なんであれ私が決めることは、寸分違わず、神が私に決めさせたことだと安心していられるのだ。私を突き動かしてきた正体不明の感覚はなくなっていた。カフェにいたほかの客たちが私の方を向く。私が大声で笑いだしていたからだ。腹の底から笑って、しばらく止まることがなかった。もし人々が生の実相を理解できたら、どれほど自由なのかをほんの僅かでも知ることができたら、もし惑星アドヴァイタに住めたなら、人生はなんとすばらしいゲームになることだろう。私はそのことを考えて、密かに楽しんでいた。
PR


  名前

                                                                                                                                                                                        

  































忍者ブログ [PR]