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知らないでいる

実在を神や一者と呼ぶのは危険。人間は最後に言語化して人格化して物語に落として解釈しようとするけど、実在に関しては何も言うべきではない。言語を超えた、言語の元となった世界をその下の階層にあるツールで解釈するのは原理的に不可能なのだから。もちろん描写しようと思えば自由にできることなのだからなんとでも言えてしまうのだけど、「何々」と言った瞬間に何々以外が生まれて、その何々以外の部分は当てはまらないと言っているわけだ。だから、すべてを包括するものを言い表しているとは言えない。

実在は理解することができない。理解は言語を必要とするが、言語の範疇にないものを言語化することはできない。言語を超す抽象度は直接体験するしかない。これは英語の精神性を日本語に翻訳できないことと似ている。翻訳は翻訳。オリジナルではない。というか、言語というのは精神性のことなのだ。それぞれの言語にはそれぞれの精神性があって、お互いがお互いを必要としている。

たとえば「世界は神の表現で、神が自分を知るためにつくったものだ」と言うことができる。

言葉の上では絶対は相対と相対関係にあるが、「絶対」と呼ばれる実在は「相対」と相対関係になっているわけじゃない。実在を「絶対」と呼んだのは相対性の世界を先に目にして、観念して、それからじゃあこれは言うなら絶対だというわけでそう呼ばれただけ。これは悪が悪としか呼べないために空性が善と呼ばれてしまうことと相似。

本当は、知ることができない。だから実在は描写できないし、解釈もできない。 そうはいっても便宜上なんらかの呼び名が必要なことあるので、強いて言うなら「なんでもない何か」とかが適切だと思う。「一者」だと、まず1というのが間違っている。実在は2ではないというだけで1ではない。1だとその裏の2が自動発生して、それ以降の数も連鎖してしまう。要するに、世界が現れる。で、間違う。なので不二一元という表現も違ってますな。

対を絶つ。
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