ツイッターで内田樹の日記をRTしている人が何人もいた。読んでみたら文章もよかった。つまり、内容がよかった。
内田さんは「才能は贈り物」であり、「たまたま今は自分の手元に預けられているだけ」、社会的なアドバンテージや創作物、為し遂げたことなどのほとんどは自分のものでないと言う。そういう理解を持たず、他者と分かち合う心がなければ、その才能はやがて枯渇するらしい。
このテーマに関連させてスランプという概念も説明していた。なるほどなるほどという感じ。以下引用。
スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。できることは、いつでもできる。そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。ーー引用終わり
人は何も所有していない。なぜなら所有という概念が本当に適用できるのは、被所有物が永遠にとどまる場合だけだからだ。あらゆるものは、世界は、一時的に観照者のもとにやって来たにすぎない。現れては消え、来ては去る。人が永遠の命を持たない限り誰も何も所有できない。だから、細かいことを言えば、冒頭の「ほとんど」というのは間違っている。
この文章を読んでいて弾子飼とスマナサーラ長老の対談を思い出す。
弾氏曰く、「何かを持っているというのも、嘘なんです。ほんとのことじゃないんです。だからほんとに何かを持つためには、まず永遠の寿命を持ってなければならない。でもそんな人はいないわけです…。人が死ぬ限りは、その死を以て持つというものもできなくなるわけです。これはですから、むしろ持っているというよりも、借りているっていうふうに考えた方がよくありません?そうです、みなさん何も持っていません。借りているだけです。自分の人生すら持ってないんですよ、みなさん。借りてるだけ」
弾氏の言っていることも同じことだ。名前と形の世界に迷い込むんでしまうとわからなくなってしまう話。
ひとつ知ったこと。
免れるは「まぬがれる」じゃなくて「まぬかれる」と読む。