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あとがき

ドアマンを後ろに騒がしいボンベイの街へ歩き出したが、私の心は浮き足立っていた。どうしてラメッシ・バルセカールのように高度な知性を持つ、教育を受けた人間が、すべてはあらかじめ決められていて、私たちの運命は、私たちが生まれる前から、言うなればエーテルでできた強固な岩にくっきりと刻まれているようなものだと信じることができたのだろう?私は人混みを掻き分けながら自問していた。彼は本当に、私たちの全人生が、まるで終わらないかのような選択と決断の連続が、浮き沈みの予測できない不安定な機会が、実は、初めの一息を吸い込んだ瞬間から既成事実だったと主張していいのだろうか?私はこの混乱から一息つこうとして、カフェを探しながら通りの反対側に渡っていた。頭のなかでは私たち双方の信念を巡る困難な対話がリピートされていた。そう、「神の御心のままに」がほとんどの宗教のエッセンスなのは確かだ。私は自分に言っていた。しかし、そう言い放った神秘主義者や賢者たちにとって、神の意志に平伏することは、単純に自らが置かれた環境は変えることはできないと受け入れることではなかったのだ。伝統的に言われてきた「神の意志」は、完全にエゴを諦め、利己的な動機がすべて消滅した人だけが発見できた。彼だけが神の意志――それがなんであれ!――を遂行するのだ。キリストやラーマクリシュナ、ラマナ・マハリシが、自分は神の意志に平伏していると言うのは、それはそれだ。しかし、これが誰にでもあてはまると言うのなら、それは奇妙で危険な狂気の一形態であると言えよう。バルセカールの理論――「自分がすべきだと思ったことは、自分がすべきだと思うように神が望んだことだ」――からすると、目覚めたブッダは次の犠牲者を襲おうとしている連続殺人犯と同程度に神の意志を遂行していることになる。  

インタビューに入る前はいくらかの意見の相違はあるだろうと予想していたが、しかし、バルセカールの本を読んでいたにもかかわらず、実際の彼は予想だにしない人物だった。いったいどうやってあんな考えを思いついたのだろう?そしてなぜ?私は不思議に思った。疑問は頭のなかをぐるぐる回り、彼の冷ややかな主張にまつわる発言を呼び起こしていった。――「誰かを傷つけても罪悪感を感じる必要はない。私たちには自分の行為に対する責任がないのだから」「ヒトラーはただの媒体で、起こらなければならなかった恐ろしい事件が彼を通して起こったにすぎない」そして、彼は断言したが、常識的感覚とは相容れない「私たちには自分の振る舞いをコントロールできないし、他者の振る舞いに影響を及ぼすこともできない」私たちは、彼のSF調の描写によれば、「プログラム」どおりに動作する「身体/マインド機構」なのだ。  

突然、スモッグのなかから待望のカフェが現れた。なかに入ると期待どおりの静かなオアシスのような所だったので、ほっとすることができた。それはこの店でだった。たくさんあった空席のうちのひとつに座り、病的なまでに甘いミルクティーを一口すすったときだった。それはいきなりやってきた。私はチャイを飲んでいなかった!それどころか、私は喫茶店に入った人物でもなかったし、頭がおかしいのではと思いはじめていた男との議論に苦悩していた人物でもなかった。実際、私は決して何もしていなかったのだ。それはまるで、私がずっと背負ってきた重荷が突然熱気球に乗ってアッという間に飛んでいって、そのまま帰ってこないかのようだった。いい人間になろう、とか、正直で寛大な人間になろうとしてもがいてきたが、そういった優越感や利己主義、攻撃的な性向を否定しようとする努力は、まったく愚かでばかげたことに、不必要に、ある尊大な観念に基づいていた――自分は運命をコントロールできるし、「他者」に害を及ぼすことができるというでしゃばった思いに。どうしてこうも間違っていたのだろう。だが待て、間違った人物も私ではないのだ!雲が霧散していくかのように、私ははっきりと理解した。「自分の人生」だと思っていたものは、実際は、機械的な行程だったのだ。自分だと思っていた人物は、ただの機械だった。自分が生きていると考えてきた世界は、私の憶測に反して、多様な人々から成る世界ではなく、機械的なシンプルさを備えた、完璧な秩序を持つ、時間が始まったときからプログラムどおりに動作してきた、数学的遊戯だったのだ。  

神の冷徹なまでに完璧な計画が私の前に姿を見せた。そして、恐怖、心配、義務、罪悪感からの絶対的な自由という光悦的スリルが、堰を切った川の激流のように私の全身を駆け巡った。不安は完全に消え、包み込むような、はっきりとした平和があった。今後どれほど不確かで曖昧模糊とした事態に遭っても、どれほど困難な決断を突きつけられても、なんであれ私が決めることは、寸分違わず、神が私に決めさせたことだと安心していられるのだ。私を突き動かしてきた正体不明の感覚はなくなっていた。カフェにいたほかの客たちが私の方を向く。私が大声で笑いだしていたからだ。腹の底から笑って、しばらく止まることがなかった。もし人々が生の実相を理解できたら、どれほど自由なのかをほんの僅かでも知ることができたら、もし惑星アドヴァイタに住めたなら、人生はなんとすばらしいゲームになることだろう。私はそのことを考えて、密かに楽しんでいた。
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How to disappear completely

洋楽のかなりの数の曲が消えたい願望を歌っていると某ツイッタらーが書いていた。

完全な死。

知らないでいる

実在を神や一者と呼ぶのは危険。人間は最後に言語化して人格化して物語に落として解釈しようとするけど、実在に関しては何も言うべきではない。言語を超えた、言語の元となった世界をその下の階層にあるツールで解釈するのは原理的に不可能なのだから。もちろん描写しようと思えば自由にできることなのだからなんとでも言えてしまうのだけど、「何々」と言った瞬間に何々以外が生まれて、その何々以外の部分は当てはまらないと言っているわけだ。だから、すべてを包括するものを言い表しているとは言えない。

実在は理解することができない。理解は言語を必要とするが、言語の範疇にないものを言語化することはできない。言語を超す抽象度は直接体験するしかない。これは英語の精神性を日本語に翻訳できないことと似ている。翻訳は翻訳。オリジナルではない。というか、言語というのは精神性のことなのだ。それぞれの言語にはそれぞれの精神性があって、お互いがお互いを必要としている。

たとえば「世界は神の表現で、神が自分を知るためにつくったものだ」と言うことができる。

言葉の上では絶対は相対と相対関係にあるが、「絶対」と呼ばれる実在は「相対」と相対関係になっているわけじゃない。実在を「絶対」と呼んだのは相対性の世界を先に目にして、観念して、それからじゃあこれは言うなら絶対だというわけでそう呼ばれただけ。これは悪が悪としか呼べないために空性が善と呼ばれてしまうことと相似。

本当は、知ることができない。だから実在は描写できないし、解釈もできない。 そうはいっても便宜上なんらかの呼び名が必要なことあるので、強いて言うなら「なんでもない何か」とかが適切だと思う。「一者」だと、まず1というのが間違っている。実在は2ではないというだけで1ではない。1だとその裏の2が自動発生して、それ以降の数も連鎖してしまう。要するに、世界が現れる。で、間違う。なので不二一元という表現も違ってますな。

対を絶つ。

無題

I sometimes find myself picking up an object and then simply appreciating its presence, its being. It could be anything. It could even be toothpaste or a pen. To simply appreciate the beingness—but not perhaps continuously because people might think you've taken something…

書き残しておくべきこと

悪があること、あたかも空と裏表かのように見えること
世界に対する疑問はhowしかないこと whyはありえない 疑問はhowが生む
2種類の覚醒
思考を「見る」ことができること
not knowing
純粋意識の後のdirect knowing ただ知る 直観知

不変・普遍

ツイッターで内田樹の日記をRTしている人が何人もいた。読んでみたら文章もよかった。つまり、内容がよかった。
 
内田さんは「才能は贈り物」であり、「たまたま今は自分の手元に預けられているだけ」、社会的なアドバンテージや創作物、為し遂げたことなどのほとんどは自分のものでないと言う。そういう理解を持たず、他者と分かち合う心がなければ、その才能はやがて枯渇するらしい。
 
このテーマに関連させてスランプという概念も説明していた。なるほどなるほどという感じ。以下引用。
 
スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。できることは、いつでもできる。そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。ーー引用終わり

人は何も所有していない。なぜなら所有という概念が本当に適用できるのは、被所有物が永遠にとどまる場合だけだからだ。あらゆるものは、世界は、一時的に観照者のもとにやって来たにすぎない。現れては消え、来ては去る。人が永遠の命を持たない限り誰も何も所有できない。だから、細かいことを言えば、冒頭の「ほとんど」というのは間違っている。
 
この文章を読んでいて弾子飼とスマナサーラ長老の対談を思い出す。
 
弾氏曰く、「何かを持っているというのも、嘘なんです。ほんとのことじゃないんです。だからほんとに何かを持つためには、まず永遠の寿命を持ってなければならない。でもそんな人はいないわけです…。人が死ぬ限りは、その死を以て持つというものもできなくなるわけです。これはですから、むしろ持っているというよりも、借りているっていうふうに考えた方がよくありません?そうです、みなさん何も持っていません。借りているだけです。自分の人生すら持ってないんですよ、みなさん。借りてるだけ」
 
弾氏の言っていることも同じことだ。名前と形の世界に迷い込むんでしまうとわからなくなってしまう話。
 
ひとつ知ったこと。
免れるは「まぬがれる」じゃなくて「まぬかれる」と読む。

自由意志と決定論

自由意志はあるように見えるだけで実際には存在していない。すべては起こる。起こるように起こる。そして実際には何も起きていない。

まず自由意志を定義してみる。意志とは、詰まるところ、あるひとつの想いにすぎない。その想いはどこからともなく湧いてくる。どういう想いを湧き上がらせるかを決めることはできないが、意識に上った想いの中からひとつを選びだすことはできる。だから、ここでは、複数の選択肢の中から任意のひとつを選びだす能力を自由意志と定義しよう。

こういう実験(長谷川真理子)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/jiyuu.html

自由意志と決定論は矛盾しているように見えて、実は、見事に折り合っている。視点(ここでは見る対象の中心に穿つ点)を固定したまま視座(対象を眺める主体の位置)を変えるからおかしなことになっているだけ。究極の自己として在るか、自我として在った気になっているか。

http://wiredvision.jp/news/201105/2011053020.html

  































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